アニメ46発目:秒速5センチメートル

警告:ネタバレあり!・・・ネタばれたところで、この作品の感動に変化無し
「One more time,One more chance」である。やまざきまさよしである。この「秒速5センチメートル」という作品は、この歌のために創られたようなものである。下記赤字の部分にたかきの、緑字の部分にかなえの全てが隠されている。
「One
more time,One more chance」
これ以上何を失えば心は許されるの
どれほどの痛みならば もういちど君に会える
One more time 季節よ うつろわないで
One more time ふざけあった 時間よ
くいちがう時はいつも僕が先に折れたね
わがままな性格が なおさら愛しくさせた
One more chance 記憶に足を取られて
One more chance 次の場所を選べない
いつでも捜しているよどっかに君の姿を
向かいのホーム 路地裏の窓
こんなとこにいるはずもないのに
願いがもしも叶うなら 今すぐ君のもとへ
できないことは もう何もない
すべてかけて抱きしめてみせるよ
寂しさ紛らわすだけなら誰でもいいはずなのに
星が落ちそうな夜だから 自分をいつわれない
One more time 季節よ うつろわないで
One more time ふざけあった時間よ
いつでも捜しているよどっかに君の姿を
交差点でも 夢の中でも
こんなとこにいるはずもないのに
奇跡がもしも起こるなら 今すぐ君に見せたい
新しい朝 これからの僕
言えなかった「好き」という言葉も
夏の想い出がまわる
ふいに消えた鼓動
いつでも捜しているよどっかに君の姿を
明け方の街 桜木町で
こんなとこに来るはずもないのに
願いがもしも叶うなら 今すぐ君のもとへ
できないことは もう何もない
すべてかけて抱きしめてみせるよ
いつでも捜しているよどっかに君の破片を
旅先の店 新聞の隅
こんなとこにあるはずもないのに
奇跡がもしも起こるなら 今すぐ君に見せたい
新しい朝 これからの僕
言えなかった「好き」と言う言葉も
いつでも捜してしまうどっかに君の笑顔を
急行待ちの 踏切あたり
こんなとこにいるはずもないのに
命が繰り返すならば 何度も君のもとへ
欲しいものなど もう何もない
君のほかに大切なものなど
命が繰り返すならば 何度も君のもとへ
欲しいものなど もう何もない
君のほかに大切なものなど
第1部「桜花抄」

転校先の小学校で、同じく転校してきたあかりと仲良くなったたかき。二人は自然にお互いを支え合った。中学校入学直前、あかりが親の仕事の都合で栃木へ転校。その夏にあかりから手紙を受け取り、文通が始まる。その冬、今度はたかきが親の都合で鹿児島(種子島)への転校が決まる。たかきは、あかりに会いに東京から栃木へ向かう。
生憎の大雪で列車のダイヤは大幅に乱れる。

午後8時に駅であかりに会い、その夜のうちにとんぼ返りする予定だったたかきだが、実際にあかりが待つ駅に着いたのは午後11時13分。あかりはもういないだろうと駅の中へはいると・・・

列車の中で不安な3時間を耐えたたかきと、駅の構内で不安な3時間を耐えたあかり。久しぶりの再会。二人はあかりの用意した弁当を食べながら、駅の構内で二人の時間を過ごす。


やがて駅の構内も閉められ、二人は外へ。あかりが文通で言っていた大きな桜の木の下へ行く。

感情を抑えられなくなり、キスをし抱き合う二人。

その夜、二人は畑の脇の小さな納屋で過ごす。古い毛布にくるまって身を寄せ合い、長い時間語り合い、いつのまにか眠ってしまう。あくまでも中学生、あくまでも子ども。

朝。たかきは列車で帰る。ホームでの別れは「次に会うまでの永い別れ」のはずだったのだが・・・。




たかきは、彼女が守れるだけの力が欲しいと、強く思った。
第1部「桜花抄」おわり
第2部「コスモナウト」

たかきが鹿児島(種子島」へ転校した後・・・高校生。中学時代に転校してきたたかきに、かなえは一目惚れ。


密かにたかきに思いを寄せ続けるかなえは、たかきと同じ高校へ通おうと必死に勉強し、晴れて同じ高校の同級生になる。通う方向も同じで、バイク通学仲間。でもたかきは、いつも周りに対して壁をつくり、心を見せない。メールも頻繁で、「東京に彼女がいる」と皆に噂される。心乱れるかなえ。



ところが、
「出す当てのないメールを打つ癖がついたのは、いつからだろう。」

自分に自信を持ち始め、上昇気流に乗ったかなえは、中学校時代からの想いをたかきに告げようと決心する。
が・・・


たかきの心に自分がいないことに気づき、たかきに対して告白をあきらめる。そのとき、種子島宇宙センターからロケットがち上げられる。



たかきの目には、自分ではない誰かしか写っていないことを、かなえは思い知らされる。たかきはいつも夢の中で少女と会っていた。


かなえは、遂にたかきの心に手を触れることができなかった。

第2部「コスモナウト」おわり
第3部「秒速5センチメートル」

大学進学で東京へ戻ったたかき。この数年間、とにかく前に進みたくて、届かないものに手を触れたくて、それが具体的に何を指すのかもほとんど脅迫的とも言えるようなその想いが、どこから湧いてくるのかも分からず僕はただ働き続け、気づけば、日々弾力を失っていく心が、ひたすら辛かった。


そしてある朝、かつてあれほどまでに真剣で切実だった想いが、きれいに失われていることに僕は気づきもう限界だと知ったとき、会社を辞めた。
3年間つきあった彼女。彼女もまた、たかきの心に手を触れることができなかった。



結婚を控え、荷物の整理をしていたあかりは、遙か昔の手紙を発見する。あの雪の日、ついにたかきに渡せなかった手紙。


あかりはあの雪の日のことを「私も彼もまだ子どもだった」と懐かしむ。


距離によって徐々に引き裂かれていく二人の心。


東京へ行くたかきを見送るかなえ。「言えなかった好きという言葉を」



幸せをつかんでいくあかり。


記憶に足を取られて次の場所を選べないたかき。

いつでも捜してしまう どっかに君の笑顔を 急行待ちの 踏切あたり こんなとこにいるはずもないのに











泣いた。よく考えれば、「昔(しかも中1のとき)の女が忘れられず、いつまでも未練たらたらのたかき。そんなたかきの陰に惚れて散っていった、かなえと『1センチしか近づけなかった』彼女。昔の男を心の中で精算でき、幸せな人生を歩んでいったあかり。」という、全然非日常ではない、特別ではない物語だ。なのに、何故、第3部の「秒速5センチメートル」のクレジットが出てから以降、涙が止まらない?
まず、絵の独特なきれいさ。写実主義的なリアリティ溢れる背景の書き込み。雪の中での寒々とした、でも二人の周りだけ温かい風景は、「純粋さとひたむきさだけしか持たない、金も地位も自立もまだ持っていない中学生」を感じさせる。種子島での雄大な自然と、人類の英知の結晶である最先端技術(ロケット)のコントラストが映える風景は、「好きな女にまだ好きと言えない、彼女を守るだけの力を持たない高校生」を感じさせる。東京での、人がいっぱいいるのに寂しいという寒々とした風景は、「彼女を守れるだけの力を手に入れたのに、かつてあれほどまでに真剣で切実だった想いが、きれいに失われていることに気づいた大人の男」を感じさせる。全ての風景が、「人を拒否し、否定し、拒絶している」のではなく、正反対。人を肯定し、人を受け入れ、幸せに満ちている。全ての光景が、だ。種子島の風景に至っては、人類の強い意志と行動力と果てしない未来をも表現している。全編に渡って「背景は幸せに満ちている」のだ。だから、なおさら過去から逃れられないたかきが哀れに思えてしまう。
次に、たかきとあかりの表情。彼らの悲しい表情は、出てこない。唯一、中1の冬、雪のプラットフォームでの別れの時だけは、二人とも「寂しい」顔をするが、それでも彼らは泣いていない。距離に引き裂かれて、次第に疎遠になっていくあかりとの仲を感じつつも、たかきは泣かない。感情をあらわにしているのはかなえだけ。たかきとあかりは、全編を通して「微笑」だ。最後の急行待ちの踏切のシーンでも、二人の間を遮った電車(「距離」の暗喩?)が通り過ぎ、その向こうに「あかりだったかもしれない」女性の姿がなくなっていた後でも、悲しい顔ではなく微笑だ。悲しい表情をしないからこそ、悲しくなってくる。
いや、正確には「悲しい」ではない。第3部の「秒速5センチメートル」のクレジットが出てから以降、涙が止まらないのは、悲しいからではない。あかりはたかきと「つきあってさえいない」わけで、しかも最後に会ったのは中1の冬という状況では、誰もあかりを「裏切り者」とは呼べない。かといって、社会人になるまで一途にあかりを想い続け、そのために「力が欲しい」と願い、がむしゃらに働き続け、あかりへの想いが枯れてしまったことに気づいたたかきに対して、誰も「女々しい」とは言えない。そう、そんなに悲しい物語でないはずなのに、何故か涙が止まらない。
何故?何故悲しくもないはずなのに、泣ける?・・・ん?この感情、どこかで・・・。分かった。卒業アルバムとか観たときの感情に、似ている。
記憶だろうか。人は記憶を「捨てるものと残すもの」に選別する。「残すもの」には「感情」というフィルタがかかり、実際のリアルな記録よりも記憶は「甘く」なる。しかも記憶は「連続映像」ではなく、スチール写真の「フラッシュ再生」だ・・・「秒速5センチメートル」のクレジット以降にめまぐるしく繰り広げられる映像は「人の記憶再生」そのものだ。その記憶再生に被さっている「感情記録」をBGMが担っている。かくして、この作品を見る者は、第1部と第2部の「記憶再生のために必要な最低限の情景説明」をインプットされ、第3部で繰り広げられる「記憶再生」を、自分自身がたかきとして「疑似体験」するわけだ。記憶再生だから映像は全てクリアできれいでなくてはいけないし、たかき(自分自身)が泣いているシーンは不要(記憶として切り捨てられるものだから)。・・・こりゃ泣けるわなw
もはやこれは、アニメとか映画とか芸術とかの範疇ではない。計算されつくした「洗脳」。自分のものではない記憶を、自分の記憶として疑似体験できる・・・少佐やバトウの世界か?自分の脳に侵入されて、擬似記憶を埋め込まれた清掃車の運転手か俺は?
「One
more time,One more chance」という歌があってこそ、この物語は成り立つ。この曲の世界を映像にすると「秒速5センチメートル」になる、と。見事だ。踏切のシーン。歌詞に見事にマッチしたこの映像。世の中の人たちには、この部分を観ないで死ぬようなもったいないことがないように、と主張したい。
さて、これからもう一度この作品観てみよう。毎日寝る前に観る癖がついている。擬似と分かっていても、自分の記憶ではないことが分かっていても、一日の終わりには「甘く切なく悲しく寂しい」この記憶を「擬似再生」して寝るのが心地よい。
